大無量寿経は「真実の教」というけれども、真実って一体なに?

スポンサーリンク

こんにちは、頭の休息処坊の極みの代表ノブです。

皆さん「お経」という言葉は聞いたことがあるとおもいます。

では「お経」を読んだことある人はいますか?

いたらその人はプロか、マニアの人でしょう。笑

お経って一般的には結局書籍って扱いになるんですかね?ちょっと違う気もしますが。笑

まあその中でもお経は「お釈迦様が説いたものを記録に残したもの」のことです。

だから

お経ってありがたいものです。

そして皆さんもそういうイメージかと思います。

しかし、同時に

ありがたい=理解できない、難しいもの

と思ってしまいます。

浄土真宗で拠り所とするお経(経典)は

・仏説無量寿経
・仏説観無量寿経
・仏説阿弥陀経

ですが、その中でも仏説無量寿経は「真実の教」とも呼ばれています。

それこそ「真実の教」なんてものは私たちにしたら

ありがたい=理解できない、難しいもの

になっちゃいますね。

私たちは普段理解できないもの、難しいものに出会うと

努力して理解しようとします。

頑張って努力して理解できたり、自分のものになったら嬉しいですよね?

そういう達成感が私たちのいきがいの1つになっているとおもいます。

1つ理解できて達成できたら、また次の対象を見つけて努力することになるでしょう。

そしてまたクリアして達成感を得る。

それが続けば人生ってとても素晴らしいものですね。

もしドラゴンボールがあったらその願いを頼みたいものです。(←頭がまだ小学生。。。)

しかし

現実は理解できないものや達成できないことが

どうしても、どうしても出てきてしまいます。

それでなくても私たちはこの人生の「やりがい無限ループ」に疲れ果ててしまいます。

実は私たちが追い求めているものは、その場その時間においてはとても大事なもののように思えますが、少し状況が変わればもうそれほど価値がないものだからです。

つまり「真実」ではないのです。

本当に「真実」を理解できたなら、「真実」に出会えたなら。

もう次のものを追い求めなくてよくなるでしょう。

真実に出会うと、私たちのその「やりがい無限ループ」がどかーんとひっくり返されるのです。

真実に出会いたいもんですね。

その出会いたいけど、出会いがたい真実を「阿弥陀」というんです。

Pocket

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。