日々の仏教語「退屈」

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「退屈」

何にもすることがなくて暇だ、時間をもてあましている状態のことを指す言葉ですね

しかし、この退屈という言葉。実は元々仏教用語なのです。ご存じでしたか?

そして実は仏教本来の意味は暇といった意味ではないのです。

仏教本来は

退屈の「退」という字は「退き、後戻りをする」

退屈の「屈」という字は「かがみ込み、屈してしまう」

という意味で

そこから退屈とは、仏教の修行に「屈」して仏教の教えが「退」いてしまうことなのです。

人生で大きな壁にぶつかり、そしてそこで挫折を味わう。

もしかしたら、挫折を味わうことによって目標を見失い、やることがなくなったということで暇だという意味で使われるようになったのかもしれません。

先日の話です。

とあるお寺さんに秋のお彼岸法要に出仕させていただきました。そしてそこで御文というものを参詣者の前で拝読させていただく機会をもらいました。御文というのは蓮如上人というお方がお書きになったもので、それをひとりで読み上げるのです。いわばソロパートなのです。

自分で言うのもなんですが、、、

これがかなり出来が悪かったんです。

御文自体は昔から慣れ親しんでいるはずでしたが、自分の甘さを痛感しました。

他のお坊さんからも極力遠回しにはありましたが、手厳しい言葉をいただきました。

基本的に私は褒めて伸びるタイプです(笑)。

しかしそれは挫折に弱い、と言い換えることが出来ます。

今、私はその自分が劣っているという状況、自分が練習を怠っている状況を素直に受け入れることができず、頭の中で逃避活動ばかりしています。

お坊さんをやめようとまでは思いませんが、なんだかんだ言い訳をしてのらりくらりやっていこうかなという気持ちさえ生まれています。

まさに退屈な状態。

いやそれよりひどいかも。

挫折して屈しているのに、屈していないふりをして退かないのですから。

ただその後、一緒に練習し指導してた方もいらっしゃっいました。

壁にぶつかって退かないといけない状況になったとしても、自分の殻・プライドを破って、周囲の先生、家族、友人の力を借りれば意外とひょいと壁を乗り越えられる。

これはとてもありがたいことです。

しかし、今の自分にはそれが甘えにならないようにしないといけない。

練習しないといけない。ありがたいことに自分が望めばその環境にあるのだから。

自分でも今が分かれ道のような気がします。

のらりくらりやって何者にもならないのか。

それとも

プライドをかなぐりすてて、練習するのか。

退屈な場面は誰しも訪れます。しかし、そこで終わりではありません。どうするかは自分次第なのです。

というわけで、今から僕は練習を始めます。

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